それから2時間後——「朱莉さん、朱莉さん。大丈夫かい?」琢磨は壁に寄りかかり、うつらうつらしている朱莉に声をかけた。「は? はい……? だ、大丈夫です……」朱莉はすっかり酔ってしまっていた。(まさか、チューハイ1杯とカクテル1杯で酔ってしまうとは……まるでザルのような明日香ちゃんとは大違いだな……)琢磨は会計を済ませると、朱莉を何とか立たせ、背中に背負うと居酒屋を後にした。通行人たちからはジロジロ妙な目で見られたが、琢磨は気にも留めなかった。(どうせ、ここは沖縄だ。俺の知り合いだっていないんだし……構うものか)朱莉を背負ったままタクシー乗り場に行ってみると、丁度運がいい事に客待ちのタクシーが1台停車していた。そこで琢磨は朱莉を抱えるように乗り込むと運転手に朱莉が宿泊中のホテルの名を告げた。「……」 自分の肩に朱莉をもたれさせるように座らせ、琢磨は夜の沖縄の町を眺めていた。国際通りには大勢の観光客と思しき人々が沢山歩いている。それを見ながら琢磨は思った。(これから朱莉さんは何カ月も沖縄で1人暮らしをすることになるんだ……。出来れば俺も朱莉さんの傍にいてやりたいけど……)ちらりと自分の肩に寄りかかって眠っている朱莉を見つめた。(だけど、朱莉さんが望んでいるのは俺じゃない……)それを考えると琢磨の胸はわけの分からない痛みに襲われるのだった――「ありがとうございます」琢磨はタクシーを降りるとお金を支払い、朱莉を背負ったまま宿泊しているホテルのフロントに行った。そこで事情を話し、宿泊している部屋の鍵を預かると琢磨は朱莉のいる部屋へ足を向けた。「……ここが朱莉さんの宿泊する部屋か……」そこそこのレベルのホテルなのかもしれないが、自分の宿泊している部屋と見比べると罪悪感を抱く。「俺はあんなすごい部屋に宿泊しているのに、朱莉さんは……」とりあえず、朱莉を寝かせなければと思い、ベッドの布団をめくると、そこに朱莉を横たえた。それでも朱莉はちっとも起きる気配は無い。普段大人びて見える朱莉だが、こうして眠っている姿はまるで子供の様にも見える。「フフ……可愛らしいな」琢磨は次の瞬間驚いた。「……一体俺は何を……?」その直後、朱莉がうなり始めた。「う~ん……」「朱莉さん? 目が覚めたのか?」しかし朱里からは返事が無いが、何か呟いている。琢
翌朝―― 目を覚ました朱莉は、自分がいつの間にか滞在先のホテルのベッドの上で眠っていることに驚いた。慌てて飛び起き、昨夜のことを思い返してみる。「え……と。昨夜は確か九条さんと居酒屋へ行って……」グレープフルーツサワーを飲んだところまでは記憶がある。けれど、その後の記憶が朱莉には全く無かった。「ひょとして私酔っぱらって……お店で寝ちゃった……?」そう言えば何となく記憶がある。琢磨に背負われてタクシーに乗った曖昧な記憶が……。「た、大変! 九条さんにとんでもない迷惑をかけちゃった!」部屋の時計を見ると6時過ぎだった。「この時間なら、まだ寝てるかも……」朱莉はキャリーケースから着替えを取り出すとすぐにバスルームへ向いシャワーを浴び、部屋へ戻るとスマホを手に取った。(7時になったら九条さんにメッセージをいれよう)朱莉はまず先に母親にメッセージを書いた。『お母さん、おはよう。今朝の具合はどう? 昨日はメッセージ送れなくてごめんね。昨日お店で綺麗な絵ハガキを見つけて買ったから、手紙出すね』送信すると、ベッドを直してカーテンを開ける。「私、本当に沖縄に来ちゃったんだ……」朱莉はポツリと呟いた――**** その頃琢磨はもう起きており、翔から届いたメッセージを読んでいた。そこには朱莉のことを心配する内容が書かれていたのだが……。「全く心配しているなら初めからあんな台詞言うなよ! 時々朱莉さんを労わるような言葉を言っておきながら、結局最後は冷たい言動を取るからよけい朱莉さんを傷付けているってことにあいつは気付いてないのか?」朝からイライラした気分になった琢磨は部屋に備え付けのコーヒーメーカでブラックコーヒーを淹れながら呟いた。「朱莉さんはもう起きているかな? 起きていればホテルに迎えに行ってここのホテルの朝食を一緒に食べれるんだが……。よし、試しに声をかけてみるか」琢磨はスマホを握りしめると、朱莉に電話をかけた。****丁度その頃、朱莉はネットで通信教育を受けていた時、琢磨から着信が入ってきた。「え? 九条さん?」朱莉は慌てて電話に出た。「もしもし、おはようございます。九条さん」『お早う、朱莉さん。良かった。起きていたんだね。まだ寝ていたらどうしようかと思っていたんだ』「いえ、もう6時には起きていましたから。それで……」朱
「す、すごい……。こんな立派なホテル初めて見ます」ホテルに到着した朱莉はその豪華な造りに目を見開いた。それを見た琢磨が申し訳なさそうに謝る。「朱莉さん、ごめん。俺だけこんな立派な部屋へ泊って。何なら今夜は朱莉さんと俺の宿泊先を交換してもいいよ?」レストランに向って歩きながら琢磨が言った。「な、何言ってるんですか? そんなとんでもないですよ。私は今のホテルで十分満足しています。だから全然気にされなくて大丈夫ですからね?」「そうかい?」琢磨は少し目を伏せた――「ほら、ここで朝食を取るんだよ」琢磨に案内されたレストランはとても広く、天井からは豪華なシャンデリアが吊り下げらていた。「な、何だか気後れしてしまいます。私、こんなカジュアルな服装をしているのに」朱莉は自分の服装を見直しながら言った。朱莉の今日の服装は柄の入った白いTシャツにデニムのロングスカートにサンダルとういうスタイルである。「ハハハ。そんな事無いよ、良く似合ってる。それに俺だってポロシャツ姿だ。他のお客も似たような服装をしているだろう?」「言われてみれば確かにそうですね」「よし、それじゃここのテーブル席にしようか?」琢磨は窓側の座席を示した。「はい、そうですね」朱莉が座ろうとしたとき。「朱莉さん。ここビュッフェスタイルなんだ。だから好きなメニューを選んで取って来るんだよ。俺はここで待っているから先に行って来るといいよ」「え? でもそれでは……」「朝、部屋でコーヒーを飲んでるからそれ程お腹が空いてるわけじゃないんだよ」琢磨の言葉に朱莉は納得した。「そうですか? それではお先に行ってきますね」 カウンターには様々なおいしそうな料理が並び、どれも目移りするものばかりだった。取りあえず琢磨を待たせてはいけないと思った朱莉は、パンに卵料理、サラダにスープ、ヨーグルトを選んで琢磨の元へ戻りかけた時、2人の女性が琢磨の側で話をしてる姿が目に止まった。(え? 九条さん? あの女の人達は誰だろう? ひょっとして知り合いなのかな?)席に戻っていいのかどうか朱莉は迷って立ち止まっていると、琢磨が朱莉に向って手を振ってきた。「朱莉、こっちだ!」(え?? あ、朱莉!?)いきなり呼び捨てされ、笑顔で呼ばれたので朱莉はすっかり面食らってしまった。そして同時に感じたのは2人の女性の自分
朝食を食べ終えた2人は今琢磨の運転する車で病院へと向かっていた。「朱莉さん、さっきはごめん」琢磨が突然ポツリと言った。「え? さっき? 何のことですか?」朱莉は突然琢磨が謝罪してきたので、振り返った。「いや、レストランで突然朱莉さんの名前を呼び捨てしたり、彼女だって言ったりしたことだよ」「あ。あの事ですか? 別に謝らなくていいですよ。私は気にしていませんので。確かに少し驚きはしましたが、あの女性達の手前、ああいう言い方をしたのですよね?」「うん。まあ……そうなんだけどね」琢磨は歯切れが悪そうに返事をする。「だけど、やっぱり九条さんは女性にモテるんですね」「え? や、やっぱりって?」九条は狼狽えて朱莉を見た。「はい。九条さんは素敵な男の人ですからね。女性達から人気があって当然ですよね? やっぱり私の思った通りでした「朱莉さん……」朱莉から「素敵な男の人」と言われて琢磨は思わず赤面しそうになった。まさか朱莉が自分のことをそんな風に見てくれているとは思ってもいなかったからだ。しかし、そこでまた琢磨の胸に暗い影が落ちる。(それでも朱莉さんの好きな男は……翔なんだろう?)琢磨は窓の外を眺めている朱莉を横目でチラリと見た。朱莉の目に映すのは翔ではなく、自分だったらどんなにか良かったのに。自分だったら朱莉をあんな悲しい目に遭わせないのに。だが、琢磨は自分の気持ちを朱莉に告げることは出来ない。それが琢磨にはとても辛かった――**** 翔との待ち合わせは病院内に併設されたカフェだった。明日香は今検査を受けていると言うことで、カフェで待ち合わせをすることにしていたのだ。琢磨と朱莉がカフェに行くと既に翔は席に着いており、2人を見ると手を上げた。「おはようございます、翔さん」「おはよう、翔」「おはよう、琢磨。それに朱莉さん。その……昨日は本当にすまなかった」翔は申し訳なさげに朱莉に謝罪した。「翔!謝るなら最初からあんな酷い言い方をするなっ!」朱莉に謝る翔を激しく非難する琢磨。「九条さん……」そんな琢磨を朱莉が見つめる。「分かってる、琢磨の言う通りだよ。本当にごめん。明日香のことになると、俺はどうしても感情的になってしまうんだ」再び、翔は朱莉に頭を下げた。だが、翔はその行為すら朱莉を傷付けているとは気が付いてもいない。
「あ、朱莉さん……? 本当にそれでいいのか……?」琢磨は驚いて朱莉を見つめた。「はい。当然ですよね。明日香さんが産んだ子供は私が産んだことにするわけですから」「ありがとう、朱莉さん。話が早くて助かるよ。それと念の為にこれからは服装も気を遣って貰えないかな? 明日香のお腹の大きさと見比べて大差ないように何か工夫をして貰えるとより一層助かるんだが……」翔は申し訳なさそうに言う。「ば、馬鹿言うな。翔……」琢磨は怒りに声を震わせた。朱莉は俯いて、ぎゅっとスカートを握りしめていたが、顔を上げた。「はい。分かりました。何とかやってみますね」「翔! 俺はそんなの認めないからな!? 朱莉さんに妊婦の真似をさせるなんて!」「写真が!」すると翔が叫んだ。「「え……?」」朱莉と琢磨が同時に首を傾げる。「写真がいるんだよ。いざという時の為に……」「そうか、お前は自分と明日香ちゃんの身の保全の為に朱莉さんの妊婦姿の写真が欲しいと言うんだな?」琢磨は冷たい声で言う。「ああ。それだけじゃない。世間の目もあるだろう? これは、朱莉さんの為でもあるんだ」翔の言葉に朱莉が反応した。「私の……為ですか?」「朱莉さん! こいつの言葉に耳を貸す必要なんか無いぞ! 朱莉さんの為とか言って、本当は自分達のことしか考えていないくせに!」「少し黙っていてくれ! これは俺と明日香、そして朱莉さんの問題なんだ!」琢磨の怒鳴り声に、翔が吐き捨てるように言った。「な、何だって……?」(こいつ……自分で何言ってるのか分かってるのか!?)琢磨はこぶしを握り締めながら翔を見た。「そう、これは……朱莉さんに取ってのビジネスだ」「ビジネス……」朱莉は小さく呟いた。「ああ、世間を騙す為には完璧にしないといけない。手を抜いたら駄目なんだ。いいかい、考えてもみるんだ。いきなり今の体型で子供を産みましたと言って誰が信じる? 世間の目を欺くには偽装が必要なんだよ」「偽装……ですか?」朱莉は一瞬悲し気な顔で目を伏せた。「分かりました。仰るとおりにいたします」「朱莉さん!」琢磨は朱莉の肩に両手を置いた。「何故だ!? 何故そこまでこいつの言う事を聞くんだよ!」「け、契約妻……だからです」「琢磨、お前がいると話しが進まない。席を外してくれ」翔は琢磨に視線を移す。「断るっ!!
「くそ! まだ翔の話は終わらないのか?」琢磨は病院のロビーでイライラしながら時計を眺めていた。その時、朱莉の姿が見えた。朱莉は琢磨の方へ向かって歩いてくる。「朱莉さん!」琢磨はここが病院だということも忘れ、朱莉の傍まで駆け寄って来た。「九条さん。すみません、お待たせしてしまって」朱莉は笑みを浮かべているが、その顔色は酷く悪かった。「大丈夫かい? 顔色が悪いよ。少しここで休んで行かないか?」「いいえ、大丈夫です。それよりも色々と買い物があるので」それを聞いた琢磨の顔が途端に険しくなる。「買い物だって? こっちは既に明日香ちゃんの大量のクリーニングだって渡したのに、まだ何かあるのかい?」「いいえ、違います。今回は私個人の買い物なんです」「買い物? それは一体……」そこまで言いかけて、琢磨は口を閉じた。「ひょっとするとマタニティ用の服でも買うつもりなのかい?」「!」朱莉の肩が小さく跳ねるのを琢磨は見逃さなかった。「そうか……。翔に言われたからだな?」琢磨はギリリと歯を食いしばった。「で、でもマタニティ服でも普段着として使えますし、い、いずれ私もこの契約婚が終わった後……」そこまで言うと朱莉は眼を擦り、俯いた。「……」琢磨はそんな朱莉を黙って見降ろしていた。(朱莉さん……その後の台詞は一体何て言おうとしていたんだ? あいつ等は腹立たしいが、朱莉さんを1人には出来ない)「付き合うよ」「え?」「俺も朱莉さんの買い物に付き合うよ。と言うか、付き合わせてくれないかな?お願いだ」「いいんですか? でも、そう言っていただけると助かります」朱莉は丁寧に頭を下げた。「いや、いいんだよ。どのみち、明日から朱莉さんはマンションで暮す事になるんだから買い物は必要だよ。今日の内に朱莉さんが使う日用品の買い物に1日付き合おうと決めていたんだ」琢磨は笑顔で答えた。「え? 1日ですか? それではご迷惑をかけてしまいます。だって九条さんは明日の飛行機で東京に帰って、その足で職場に向かうんですよね? 翔さんが言ってましたよ?」「確かにそうだけど、でも出張と似たような物だよ。今までだって遠くの出張先から東京へ戻ってそのまま出社なんて多々あることだから」「でも1時間程お付き合いただければ、後は大丈夫ですから」「いいんだ、だって今日も沢山買い物が
2人は琢磨の運転する車で、まずは朱莉の新しい生活に必要な日用品を買い揃えた。次に琢磨が探し出した新しい教習所へ転入届に行き、最後にベビー用品専門店へと足を運んだ――**** 店内には可愛らしいベビー服やベビーカー、おむつや哺乳瓶。そしてマタニティウェアと様々な品物が売られていた。「俺、こんな店来るの初めてなんだけど何だか照れ臭いと思わないかい?」琢磨が朱莉に耳打ちする。「私も初めてですよ。何だか不思議な空間に感じてます」朱莉も小声で返事をする。(そっか……マタニティ服のことばかり考えていたけど、これから生まれて来る赤ちゃんは私が替わりに育てることになるからやっぱり私の方で色々買い揃えるんだろうな……)「どうしたの? 朱莉さん」ボンヤリ考えていると琢磨が声をかけてきた。「い、いえ。このベビードレス、可愛いなと思って」朱莉はその中の一着、新生児用のベビードレスを手に取った。「うん。確かに可愛いね」琢磨は朱莉の背後からベビードレスを覗きこむ。すると琢磨の背後で声が聞こえてきた。「ねえねえ、お母さん、見て。あの若い夫婦、すごく素敵だと思わない?」「確かにそうだね。美男美女ですごく幸せそうに見えるね」琢磨の耳に偶然その会話が耳に飛び込んできて、一瞬で耳まで真っ赤に染まる。チラリと声の方を横目で伺うと、どうやら妊婦の娘と実母の組み合わせのようだった。朱莉の方は2人の会話が聞こえていなかったのか、真剣な眼差しで新生児用の肌着やスタイ等を見ている。(あの人達には俺と朱莉さんが夫婦に見えたのか?)それだったらどんなに良かったことか。しかし、琢磨は絶対に朱莉に対して抱いている思いを言葉にすることが出来無い。何故なら自分にはそんな資格は一切無いからだ。だから琢磨に出来ることは、なるべく朱莉の手助けをし、翔と離婚後は自分以外の他の誰かと結婚して、幸せになれるよう祈るだけだった……。 その後、朱莉はこの店でマタニティ用の服を3着と、新生児用の肌着にベビードレスを買って店を出た。「え? もう新生児用の下着やドレスを買ったの?」朱莉から話を聞いた琢磨の目が見開かれる。「はい。だってとても可愛らしいドレスを見つけたので。あの……気が早過ぎましたか?」「い、いや? どうなんだろうな? ごめん。実は俺の友人の中で結婚しているのは何人かいるけど、まだ誰
「明日香、朱莉さんがクリーニングを持って来てくれたぞ」検査が終わり、部屋にベッドごと戻って来た明日香に翔が声をかけた。「あら、そうなの? 朱莉さんが自分から持ってきてくれたのかしら?」「いや、俺が朱莉さんを呼んだ。ほら、明日から俺と琢磨は東京に戻るだろう? その間明日香の面倒を見て貰わないとならないからな」翔は明日香の髪を撫でた。「……」しかし、当の明日香は何か考え込んだ風に黙っている。「どうしたんだ? 明日香」「ねえ……。翔、朱莉さんに何て言ったの?」明日香はじっと翔の目を見つめる。「え……? 週に3回は明日香の面倒をみに病院へ来るように伝えたが?」「3回……それじゃ朱莉さんにちょっと悪い気がするわ。週に2度でいいわ。それに洗濯物だけお願いするわ。後は大丈夫よ。この病院には看護師以外にヘルパーもいるから」明日香の言葉に翔は耳を疑った。「え? 明日香……今の台詞本気で言ってるのか?」「何よ、本気に決まってるでしょう? 子供を産むんだからもっとしっかりしないとね。それに朱莉さんにだって自分の生活だってあるだろうから。教習所にだって行くわけでしょう?」「教習所……そうだ! 教習所だ。沖縄にいる間は休んでもらわないと!」翔はスマホを取り出して、朱莉に連絡を入れようとするのを明日香が止めた。「ちょっと待ってよ翔。何故朱莉さんの教習所を休ませようとするの?」「だってそうだろう? 朱莉さんには妊婦の恰好をしてもらわないとならないんだ。あまり妊婦で教習所へ通う人は少ないだろう?」「そのことなんだけど……。何とか朱莉さんを妊婦にしたてないで御爺様達の目をごまかす方法は無いかしら?」明日香は翔をじっと見つめた。「え?」「いくらなんでも朱莉さんが出産したことにするって言うのはやはり無理があると思うのよね。だって、現に私はこうしてこの病院に運び込まれてしまったわけだし。幸い、病院では私たちの関係は兄妹として認識されているけど。でもこの病院で出産するのはやめようかと思っているのよ。落ち着いたら海外で出産しようかと考えてるの。海外で出産すれば目立たないでしょう?」「最近ネットで良く何か調べていると思っていたけど……そんなことを調べていたのか?」「ええ、そうよ。いくら何でも日本で出産するのは危険だと思うのよね。なるべくリスクは避けたいから」「
琢磨は雨に打たれながら、朱莉と航が抱き合ている姿を呆然と見ていた。(誰なんだ……? あの男……航君と呼んでいたけど、まさか朱莉さんが沖縄で同居していた男なのか?)気付けば琢磨は歯を食いしばり、両手を強く握りしめていた。そして一度自分を落ち着かせる為に深呼吸すると、2人に近寄って声をかけた。「朱莉さん。その人は誰だい?」すると、その時航は初めて朱莉から離れて顔を上げ、琢磨の顔を見ると表情を変えた。「あ……あんたは九条琢磨……」(何? この男は俺のことを知っているのか?)そこで琢磨は尋ねた。「君は何故俺のことを知っているんだい?」すると航は言った。「そんなのは当たり前だろう? 自分がどれだけ有名人か分かっていないのか? 元鳴海グループの副社長の秘書。そして今は【ラージウェアハウス】の若き社長だからな」「そうか……。それで君は?」琢磨はイラついた様子で航を見た。航は先ほどからピタリと朱莉に張り付いて離れない。それがどうにも気に入らなかった。「あの、九条さん。彼は……」朱莉は琢磨のいつもとは違う様子に気付き、口を開きかけた所を航が止めた。「いいよ、朱莉。俺から自己紹介するから」その言葉を聞き、琢磨は眉が上がった。(朱莉……? 朱莉さんのことを呼び捨てにしているのか!? どう見ても朱莉さんよりは年下に見えるこの男は……)「俺は安西航。仕事で沖縄へ行った時に朱莉と知り合って1週間程あのマンションで同居させて貰っていたんだ。貴方ですよね? 朱莉の為にあのマンションを選んでくれたのは。2LDKだったからお陰で助かりましたよ」何処か挑発的に言う航。腹の中は怒りで煮えたぎっていた。(くそ……っ! この男が朱莉を鳴海翔に紹介しなければ朱莉はこんな目に遭う事は無かったのに……! それにしても悔しいが、顔は確かにいいな……)琢磨は何故航がこれ程自分を睨み付けているのか見当がつかなかった。(ひょっとしてこの男は朱莉さんのことが好きだから俺を目の敵にしてるのか?)一方、困ってしまったのは朱莉の方だ。まさか今迄音信不通だった航が突然自分の住んでいる億ションに現れるとは夢にも思っていなかったからだ。航とは話がしたいと思っていたので朱莉は提案した。「あの……取りあえず中へ入りませんか? 食事を用意するので」すると航は笑顔になった。「いいのか? 朱
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた